戦国時代の武将たちは、常に「人を率いる」という課題と向き合っていました。合戦の勝敗や領国経営の成否は、単に個人の武勇だけでなく、家臣団や領民をいかにまとめ、活かすかというリーダーシップに大きく左右されました。
本記事では、戦国武将に関する史料に残された名言とその背景を手がかりに、現代にも通じる「リーダーの3つの壁」を整理します。ビジネス向けの自己啓発ではなく、あくまで歴史的事実と史料を踏まえたうえで、戦国武将の言葉がどのような状況で生まれたのかを検討していきます。
[著者情報]
執筆者:山城 健吾(やましろ けんご)
リーダーシップコンサルタント / 歴史研究家。戦国時代から幕末にかけての武家社会を対象とし、「リーダーシップ史」を専門とする。著書に『戦国CEO』シリーズなどがあり、一次史料や軍記物を読み解きながら、当時の大名・武将たちの意思決定と組織運営を考察している。
戦国武将も直面した「3つの壁」──人材・重圧・求心力
戦国大名や武将に関する史料や軍記を読むと、彼らが悩んでいた問題の多くは、現代の組織リーダーが直面する課題と驚くほど共通していることに気づきます。たとえば、以下のような三つの側面です。
- 人材の壁: 各々背景や能力が異なる家臣・与力・被官を、いかに登用し、活用するか。
- プレッシャーの壁: 合戦や外交交渉、主従関係の変化など、大きな重圧の中でどのように判断したか。
- 求心力の壁: 支配領域が広がる中で、家中の結束をどう維持し、方向性を示したか。
以下では、それぞれの壁に対応する形で、武田信玄・徳川家康・織田信長の言葉と史実を取り上げ、当時の状況を確認していきます。
【1. 人材の壁】武田信玄の「人は城、人は石垣、人は堀」
甲斐の戦国大名・武田信玄(1521〜1573)は、しばしば「人材登用の巧みな大名」として評価されます。その象徴として頻繁に引かれるのが、次の言葉です。
「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」
(出典とされる史料:『甲陽軍鑑』)
この言葉は、後世の軍学書『甲陽軍鑑』に収録されており、信玄の人物観・統治観を示すものとして知られています。『甲陽軍鑑』自体は編纂時期が江戸初期とされ、全てを一次史料と同じ重みで扱うことには注意が必要ですが、それでも「武田家中で共有されていた信玄像」を反映している点で重要な史料です。
ここで注目したいのは、信玄が「堅固な城郭」ではなく「人」こそが城であり堀であると位置づけている点です。実際、武田家は天守を持つ巨大城郭を好まず、躑躅ヶ崎館のような館形式を本拠としつつ、主として機動的な軍事行動で勢力を拡大していきました。その背景には、「有能な家臣団こそ最大の軍事資源である」という発想があったと考えられます。
史料の上では、山本勘助・高坂昌信・馬場信春など、特定の分野に長けた家臣を適材適所で用いた事例が多く見られます。「人は城」という表現は、そのような実践の上に成立したキーワードと見ることができるでしょう。
【2. プレッシャーの壁】徳川家康の「重荷を負うて遠き道を行く」
三河の戦国大名から出発し、最終的に江戸幕府を開いた徳川家康(1543〜1616)は、「忍耐」のイメージと結びつけられることが多い人物です。その性格像を象徴する言葉として有名なのが、いわゆる『東照宮御遺訓』に見られる次の一節です。
「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず」
(出典:『東照宮御遺訓』※成立は江戸期であり、後世の編集を含むとされる)
この「御遺訓」は、家康自筆ではなく、江戸時代に編集された教訓集であると考えられています。そのため、言葉をそのまま家康の発言として断定することには慎重さが求められますが、少なくとも「家康像をどう受け継えだか」を知る上では重要な資料です。
家康の生涯を振り返ると、この言葉が後世に広まった理由も見えてきます。幼少期には今川家の人質として過ごし、青年期には織田信長との同盟関係に揺さぶられ、さらに元亀3年(1572)の三方ヶ原の戦いでは武田信玄に大敗を喫しました。敗走後、自らの敗走図を描かせて戒めとした逸話は有名です。
こうした経験から、家康は短期的な勝利よりも「長く生き残ること」「決定的局面まで力を温存すること」の重要性を学んだと考えられます。「重荷を負うて遠き道」という表現は、まさに乱世の中で生き延びるための心構えを端的に示したものと言えるでしょう。
【3. 求心力の壁】織田信長の「天下布武」というビジョン
尾張の一地方領主から身を起こし、畿内制圧を果たした織田信長(1534〜1582)は、その急速な勢力拡大と過激な政策から、「革新的な統治者」として評価されてきました。その求心力の源としてしばしば取り上げられるのが、「天下布武」というスローガンです。
「天下布武」
(出典:朱印状や文書に押された信長の印章)
「天下布武」の印章は、永禄年間以降、信長が発給した文書などで確認されます。この語は「武をもって天下に号令を布く」といった意味に加え、当時の寺社勢力や旧来の権威を抑え、新たな秩序を築こうとする信長の方針を象徴するものとして解釈されてきました。
美濃攻略後に岐阜城に本拠を移し、「天下布武」の印章を用い始めたことは、尾張・美濃の一大勢力から「天下」を視野に入れた政治的主体へと、自らの位置づけを変えようとした表明とも考えられます。単なる武力の誇示ではなく、「どのような世界を目指すか」というビジョンの提示であった点が重要です。
家臣団の構成を見ると、信長のもとには出自にとらわれず多様な人材が集まっています。木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)や明智光秀など、もともと大名家中の重臣ではなかった人物が重用されていく過程は、「天下布武」というスローガンが有能な人材を引き寄せ、求心力の核となっていたことを示していると言えるでしょう。
小括:名言から見える「戦国リーダー」の共通点
ここまで、
- 武田信玄の「人は城、人は石垣、人は堀」
- 徳川家康の「重荷を負うて遠き道を行くがごとし」
- 織田信長の「天下布武」
という三つのキーワードを、史料と歴史的背景を踏まえて整理してきました。
これらはそれぞれ、
- 人材観・組織観(信玄)
- 時間感覚・忍耐(家康)
- ビジョン提示・求心力(信長)
という異なる側面を担っていますが、共通しているのは、いずれも「自分一人ではなく、多数の人々を巻き込み、長い時間軸で物事を動かす」ための視点だということです。
名言そのものはしばしば後世に整理・脚色されたものであり、必ずしも本人の発言がそのまま伝わっているわけではありません。それでも、これらの言葉が後世の人々に受け継がれてきた事実は、「その武将像がどのように記憶され、評価されてきたか」を考える手がかりになります。
[参考文献]
- 『甲陽軍鑑』
- 太田牛一『信長公記』
- 『東照宮御遺訓』
- 小和田哲男『戦国武将の実像』
- 谷口克広『信長と天下統一』

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