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この記事を書いた人
田中 宗一郎 (たなか そういちろう)
歴史探究家 / 文献アナリスト
戦国時代の一次史料比較分析を専門とし、特に異なる史料間の記述の差異から、出来事の多面的な真実に迫ることをライフワークとしています。歴史専門誌『歴史街道』への寄稿や、ブログ「史料の森を歩く」での分析が主な活動です。
高橋さんのような探究心旺盛な歴史ファンこそが、歴史を面白くする主役です。一緒に史料の森に入り、定説のさらに奥にある景色を見に行きましょう。
大河ドラマで描かれる本能寺の変。織田信長の最期の言葉に胸を熱くした経験は、多くの歴史ファンが共有するものでしょう。しかし、もし信長の第一声が、私たちが知る「是非に及ばず」ではなかったとしたら…?
この記事では、定説の根拠である『信長公記』と、徳川家が記した『三河物語』を徹底比較します。複数の史料と最新解釈を読み解き、あなたの歴史観をアップデートする知的探求の旅へご案内します。読み終える頃には、本能寺の変を多角的に見る「新しい視点」を手に入れているはずです。
なぜ私たちは「是非に及ばず」しか知らないのか? “定説”の正体
多くの方がご存知のように、本能寺の変における織田信長の最期の言葉は「是非に及ばず」とされています。この有名な言葉が広く知られているのには、明確な理由があります。それは、非常に信頼性の高い一次史料に、その記述が残されているからです。
その史料とは、織田信長の家臣であった太田牛一(おおたぎゅういち)が記した『信長公記(しんちょうこうき)』です。『信長公記』は、信長の側近であった太田牛一が自身の見聞に基づき記録したものであり、その詳細さと客観性から、戦国時代研究における最も重要な文献の一つと評価されています。謀反人が明智光秀であると森蘭丸から伝え聞いた織田信長が、この「是非に及ばず」という一言を発したとされる場面は、まさに『信長公記』の記述に基づいています。信長のすぐ近くにいた人物による記録だからこそ、「是非に及ばず」という言葉は絶大な説得力を持ち、今日まで定説として語り継がれているのです。
✍️ 専門家の経験からの一言アドバイス
【結論】: 『信長公記』の記述は、歴史ミステリーの最初の章に過ぎません。
なぜなら、この点は多くの人が見落としがちで、『信長公記』の記述をゴールだと思ってしまうからです。しかし、一つの信頼できる記録の存在が、他の記録の存在を否定するものではありません。この知見が、あなたの歴史探求の助けになれば幸いです。
もう一つの第一声「息子が裏切ったか?」- 『三河物語』が投じる一石
しかし、歴史の面白さは、一つの記録だけでは終わらないところにあります。『信長公記』とは全く異なる、もう一つの第一声が存在することをご存知でしょうか。
その言葉が記録されているのは、徳川家の家臣・大久保忠教によって書かれた『三河物語(みかわものがたり)』です。『三河物語』によれば、謀反の報せを聞いた織田信長の第一声は、「上之助が別心か(うえのすけがべっしんか)」であったとされています。「上之助」とは、信長の嫡男・織田信忠(おだのぶただ)のこと。つまり、信長は謀反の首謀者が、まさか自分の息子ではないかと疑った、というのです。
『信長公記』と『三河物語』は、同じ本能寺の変という事件について、全く異なる信長の言葉を伝えています。なぜ、このような違いが生まれたのでしょうか。両史料の背景を比較してみましょう。
| 📊 比較表 表タイトル: 『信長公記』と『三河物語』における信長の第一声の比較 |
観点 | 信長公記 | 三河物語 |
|---|---|---|---|
| 著者 | 太田牛一(信長の家臣) | 大久保忠教(徳川家の家臣) | |
| 立場 | 織田家側 | 徳川家側 | |
| 記録された言葉 | 是非に及ばず | 上之助が別心か | |
| 成立時期 | 1610年頃 | 1622年~1632年頃 |
この表からわかるように、『信長公記』の著者である太田牛一は織田家の人間であり、一方で『三河物語』は事件後に天下人となる徳川家の視点から書かれています。立場が違えば、出来事の記録の仕方も変わってくるのです。徳川家としては、「信長は身内さえ疑う人物だった」という印象を後世に残したかったのかもしれません。
では「是非に及ばず」の意味とは?3つの解釈で深掘りする信長の心理
それでは、定説である「是非に及ばず」という言葉に話を戻しましょう。仮にこの言葉が真実だとして、その意味するところは何だったのでしょうか。この一言には、大きく分けて3つの解釈が存在します。
- 解釈①:もはや仕方ない(諦め)
最も一般的で、広く知られている解釈です。「是か非かを論じても仕方がない」という意味で、数の上で圧倒的に不利な状況を瞬時に理解し、運命を受け入れたという、信長の冷静な判断力を示すものとされています。 - 解釈②:議論の余地なし、戦うぞ(徹底抗戦)
近年、注目されている新解釈です。「議論している場合ではない、すぐに行動せよ!」という、信長らしい徹底抗戦の意志を示したというものです。実際に信長は、最期まで自ら弓を取り戦ったとされており、その行動と一致する解釈と言えます。 - 解釈③:(光秀の裏切りは)言うまでもない(覚悟)
さらに踏み込んだ解釈として、信長は光秀の謀反を予期、あるいは瞬時に理解し、「(光秀が裏切ったのは)今さら論じるまでもないことだ」と述べた、というものです。この解釈は、二人の間に何らかの密約や深い確執があったとする説と結びつきやすい考え方です。
このように、たった一言の裏にも、信長の心理状態をめぐる多様な解釈が存在するのです。
よくある質問:歴史探究家がお答えします
ここまで読み進めていただいた方から、よくいただく質問にお答えします。
Q1. 結局、どちらの史料が正しいのですか?
A1. 「『結局、信長は何て言ったんですか?』とよく聞かれます。その裏には『一つの正解が欲しい』という気持ちがあるのでしょう。しかし、私はあえてこうお答えしています。『どちらが正しいか』という真実探し以上に、『なぜ異なる記録が生まれたのか』という背景を考えることこそ、歴史の核心に迫る鍵であり、歴史ファンの特権ですよ」と。
Q2. この言葉を聞いたのは、具体的に誰ですか?
A2. 『信長公記』の記述を基にした通説では、謀反を伝えた小姓・森蘭丸が直接聞き、著者の太田牛一が、変の後に生き延びた女房衆などへの取材を基にして記録したと考えられています。炎上する本能寺という極限状況の中での伝聞である、という点も、このミステリーの奥深さを加えています。
まとめ:定説の先にある、あなただけの歴史の楽しみ方
今回は、本能寺の変における織田信長の最期の言葉について、深く掘り下げてきました。
- 定説「是非に及ばず」は、信頼性の高い一次史料『信長公記』が出典であること。
- 徳川家の史料『三河物語』には、「息子が裏切ったか?」という全く異なる第一声が記録されていること。
- 「是非に及ばず」という言葉自体にも、「諦め」「徹底抗戦」「覚悟」など複数の解釈が存在すること。
これであなたも、単なる定説を知っているだけでなく、その裏にある史料の違いや解釈の多様性まで語れる、一歩進んだ歴史ファンです。ぜひ、この新しい視点を持って、もう一度、本能寺の変という壮大な歴史ドラマを味わってみてください。きっと、これまでとは違う景色が見えてくるはずです。
本能”寺”の変にちなんで、次はこちらの記事で「京都の歴史ミステリーを巡る旅」はいかがでしょうか?
[参考文献リスト]
- 刀剣ワールド財団. (n.d.). 本能寺の変. 刀剣ワールド. Retrieved from https://www.touken-world.jp/tips/7090/
- Precious.jp編集部. (2022, December 29). 「是非に及ばず」は誰が言った?読み方、意味や類語など、覚えておきたい基礎知識をおさらい!. Precious.jp. Retrieved from https://precious.jp/articles/-/39997
- レキシル. (2023, June 21). 織田信長が【本能寺の変】で残した名言!その意味に隠れた覚悟と後悔. 歴史専門サイト「レキシル」. Retrieved from https://rekishiru.site/archives/13303
- スタジオポッポ. (2022, June 21). 織田信長、本能寺の変での第一声は「是非に及ばず」か?「上之助が別心か」か?!. ぽっぽブログ. Retrieved from https://studiopoppo.jp/poppoblog/chat/20440/

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