歴史上人物の中で本当は優しい人たち|鬼や魔王のイメージが変わる心温まる物語3選

毎日のお仕事や、SNSで流れてくるニュースに、少し心が疲れてしまっていませんか。「なんだか心がささくれ立ってしまう…」そんな夜に、誰かを傷つけるのではなく、誰かの優しさに触れたいと思うのは、とても自然なことです。

実は、私たちが歴史の教科書で学ぶ厳しい顔をした偉人たちにも、知られざる心温まる一面がありました。本記事では、日本の歴史資料や伝承に残されたエピソードをもとに、武将たちの意外な「優しさ」に光をあてていきます。

単に「優しい人」をリストアップするのではなく、その人のイメージがガラリと変わるような、明日誰かに話したくなる物語を厳選しました。読み終える頃には、きっとあなたの心も少しだけ軽くなっているはずです。

執筆者:月夜野 彩(つきよの あや)

歴史ライター。学生時代に訪れた城跡の美しさに魅了され、日本史、特に戦国時代から幕末の人物たちの生き様にのめり込む。歴史を「暗記科目」ではなく「共感できる物語」として伝えることをモットーに、Webメディアや雑誌で執筆活動を行う。好きな武将は、今回の記事でも紹介した豊臣秀長。休日は全国の史跡を巡り、偉人たちに想いを馳せている。

「鬼島津」と呼ばれた猛将の、深すぎる思いやり ― 島津義弘

戦国時代、九州でその名を轟かせた島津家。その中でも特に「鬼島津(おにしまづ)」と敵から恐れられたのが、島津義弘(しまづ よしひろ)です。戦場では情け容赦ない猛将として知られる島津義弘ですが、家臣への接し方を伝える記録を読み解いていくと、その素顔は思いやりに満ちた人物像として浮かび上がってきます。

義弘の優しさを象徴する逸話として、朝鮮出兵の際のエピソードが伝えられています。厳しい冬の寒さの中、凍える家臣たちのために、義弘は自ら火の番をしたと言われます。大将自らが夜通し火を守り、部下たちが少しでも暖かく眠れるように配慮したというこの話は、軍記物や島津家の家記類(『義弘公御年譜』など)に類似の記録が見られます。

このような行動からは、島津義弘のリーダーシップが、恐怖による支配というよりも、前線で共に戦う仲間への配慮に根ざしていたことがうかがえます。

また、義弘が亡くなった際の出来事も、その人望の深さを示しています。江戸幕府は殉死(主君の死を追って家臣が自決すること)を原則禁じていましたが、義弘の死後、13名もの家臣がその後を追ったと伝えられています。史料によって人数や詳細には違いがあるものの、「多くの家臣が義弘の死を悼み、自ら命を絶った」との記録は一貫しており、島津義弘がいかに深く慕われていたかの証拠といえるでしょう。

戦場で「鬼」と恐れられた武将の内側に、部下を思いやる静かな優しさが確かに存在していた――そのギャップこそが、島津義弘という人物の魅力なのかもしれません。

「魔王」のイメージを覆す、人間味あふれる気配り ― 織田信長

「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」という句で知られ、冷酷非道な「魔王」というイメージが定着している織田信長(おだ のぶなが)。しかし、信長自身の手紙や同時代の日記など一次資料を丹念に見ていくと、そのイメージとのギャップにしばしば驚かされます。

例えば、信長は重臣であった丹羽長秀(にわ ながひで)のことを、親しみを込めて「米(よね)」と呼んでいたと伝えられます。これは、丹羽長秀が米のように、織田家にとってなくてはならない大切な存在である、という信長流の最大級の賛辞だったとも解釈されています。こうした呼称は、後世の軍記物だけでなく、『信長公記』など織田家側の記録からも、その信頼ぶりをうかがうことができます。

さらに、豊臣秀吉の妻・ねね(おね)が、秀吉の女性関係に悩み信長に相談の手紙を送った際のエピソードは、信長の人間味を伝えるものとして有名です。現存する信長書状の中には、ねねに対して非常に丁寧な返事を書いたものがあり、その手紙の中で信長は「あの禿鼠(はげねずみ=秀吉のこと)にはもったいないほどの奥方だ」「これからも奥方らしく堂々としていなさい」と、ねねを気遣い、励ましています。

天下統一を目前にした最高権力者が、一人の家臣の妻の悩みに真摯に向き合う――この書状からは、一般的な「魔王」像とは異なる、情に厚い一面が見えてきます。『信長公記』や同時代の公家の日記『兼見卿記』などをあわせて読むと、信長が合理的なだけの人物ではなく、人間関係の機微にも通じた存在であったことがより立体的に浮かび上がります。

✍️ 専門家の経験からの一言アドバイス

【結論】: 歴史上の人物の「イメージ」は、後世の物語や創作によって作られている部分も少なくありません。一次資料である手紙や日記に目を通してみると、意外な素顔が見えてきます。

なぜなら、物語はドラマ性を高めるために人物像を単純化しがちですが、本人が書いた手紙には、その時々の感情や人間関係が生々しく反映されるからです。信長の書状は、彼の合理性だけでなく、周囲の人間をよく観察し、言葉を選んで接していたことを教えてくれます。この視点を持つと、歴史がぐっと面白くなりますよ。

派手な兄を静かに支え続けた、穏やかな「縁の下の力持ち」 ― 豊臣秀長

農民から天下人へと駆け上がった豊臣秀吉。その華やかな兄の影で、豊臣家を静かに、しかし確かな手腕で支え続けたのが、弟の豊臣秀長(とよとみ ひでなが)です。

性格が激しく、時に強引な判断を下すこともあった秀吉とは対照的に、秀長は温厚で誠実な人物として知られています。奈良の興福寺の僧が記した『多聞院日記』など、当時の記録にも秀長の穏やかな人柄や統治ぶりに触れた記述が見られます。

気難しい秀吉に直接もの申すのをためらう家臣たちは、まず秀長に取り次ぎを頼んだと伝えられています。秀長は兄と家臣の間に入るクッションのような存在であり、その調整力によって多くの対立や不満が和らげられたと考えられます。

また、秀長の領地であった大和郡山について、「これまで一度も死刑を行ったことがない」との逸話も残っています。史料によって表現は異なりますが、「苛烈な処罰を避け、できる限り穏当な政治を行っていた」と評価される記録は少なくありません。民を無闇に罰するのではなく、安定した統治を重んじた姿勢がうかがえます。

秀吉も弟・秀長には絶大な信頼を寄せており、重要な政治や軍事の相談を常にしていたとされます。多くの歴史家は、穏やかで思慮深い秀長の死後、秀吉の強権的な政策や朝鮮出兵など「暴走」と評される動きが加速したと指摘しています。豊臣政権にとって、秀長の存在はまさに良心であり、最後のブレーキ役だったと言えるでしょう。

目立つことは少なくとも、周囲を支え、衝突を和らげ、民を守ろうとした優しさが、豊臣政権をしばらくの間安定させていた――その静かな役割に思いを馳せると、「歴史は主役だけでは動いていない」ということを改めて実感させられます。

まとめ:優しい物語は、明日への小さな活力になる

今回は、島津義弘織田信長、そして豊臣秀長という3人の武将の、一般的なイメージとは少し違う、心温まる優しさの物語をご紹介しました。

  • 鬼島津は、家臣を深く思いやるリーダーだった。
  • 魔王は、部下の家族まで気遣う人間味あふれる人物だった。
  • 天下人の弟は、その穏やかさで組織を支える大黒柱だった。

厳しい戦国の世でさえ、このような深い思いやりや人間味あふれる交流が確かに存在していました。史料の行間ににじむ「優しさ」に触れることで、歴史上の人物がぐっと身近に感じられるのではないでしょうか。

毎日を頑張る中で、心が少し疲れてしまったとき。ぜひ、彼らの物語を思い出してみてください。歴史上の人物が持つ意外な優しさが、あなたの心を少しだけ温め、明日へ向かうための小さな活力となることを願っています。

参考文献リスト

  • 『戦国武将の中で優しい性格、家臣想いで有名な武将5選』歴史イズム
  • 『織田信長は優しい性格だった?意外にもいい人エピソードが多かった』歴史専門サイト「レキシル」
  • 太田牛一『信長公記』
  • 『多聞院日記』
  • 『薩藩旧記雑録』ほか島津家関係史料

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